2022年12月30日金曜日

Please God bless for her 或いは またいつかと 友が言った。

オレが 彼女達と出会ったのは 32年前 とある錫鉱山跡地繁華街から 少し入った一軒家。

庭が広く 二階建ての家。前庭のゲートで誰何され ゲートが開く。

一階は サロン、カウンターの後ろには 数々の酒瓶が並べられていた。

完全予約制 会員限定サロンだ。

 

このサロンで 彼女達と話しているのが 愉しかった。

店主 宝珍と水晶は 姉妹、蔦は幼馴染だ。

2階には 魔物が棲んでいるので、上がらなかった。

 

数日前 水晶からSNSを受ける、蔦にも確認した。

今 宝珍の肉体は ポリ預かりだと。

ポリからリリースされた宝珍が棺に横たわり、防護服を着た看護師()に護送された棺を 今日送られた画像で確認。

 

また どっかで会おう宝珍、See You Again, 再見、アディオス!

  https://www.youtube.com/watch?v=ry25t8frMtk

2022年12月4日日曜日

押井守著「凡人として生きるということ」再読しつつ 記憶の巡礼が始まる

この本には、なんの感慨も無いのだが ワタシは押井守の映像作品は好きだ。

私的に考える押井の映像作品には、2系統ある。

原作がある:機動警察パトレイバー、攻殻機動隊

原作がない:御先祖様万々歳! 、立喰師列伝

これらの作品は、SFなのだ、ここから 巡礼が始まる。

 

攻殻機動隊の首にプラグインし、データを読み込むとはサイバーパンクSFだ。

1980年代中頃に ウィリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」を読んだ。

ルーディー・レッカーとか サイバーパンクを読み続けた。

インターネット概念が希薄(無い)な頃の電脳ネット世界の小説だ。

それまでも、P.K.ディックやブレードランナーの様に 近未来ディストピア世界でITと会話する作品があるが、プラグインして 人の脳に直接 データをインプリントする様な発想は無かったと思う。

アクセスカードを使いながら陰陽2次元を自分で操作していくゲーム(360度回転)の「クーロンズゲート」の出現は1990年代後半だ。

 

1980年代後半に ティムパワーズ等々のスティームパンクを読んだ。

19世紀を舞台に ゴシックロマンとその時代に無いテクノロジーを融合した作品群。

大友克洋アニメ「スチームボーイ」が発表されるのは、2004年だ。

 

そして 記憶の底から思い出すジェイムズ・ティプトリー・Jr. 短編集「愛はさだめ、さだめは死」(日本訳出版1987,オリジナル出版1975)に 「接続された女」があった事を。

 

記憶を頼りに書きましたが 年と名前は電脳ネットにプラグインして確認しました。

2022年11月29日火曜日

野本響子著”日本人は「やめる練習」がたりてない”を再読す

 この本は著者が 成り行きで 馬来西亜に触れ 移住した経験本だ。

星野ルネ(知らん人)が帯に

”やめる”と”逃げる”が、同じに見えてしまう社会にあって、

”やめる”を”見渡す”に変えてくれる本とあったので 買った記憶がある。

亜細亜、欧米では転職が 当たり前だ。

最近の日本も 転職が多い様だ。

ホッピングと言う。

ホッパー達の インタヴューに狩りだされた事があった。

技術者としての 能力を判断しなさいと。

数回で オレはインタヴューに出ないと宣言した。

ホッパーは アピールする あそこで何年やって プロマネになりましたやら。

そんな話はどーでもいいけど 廃水処理計算ができるか?構造計算できるか?CADで図面が作成できるか?等々 問うのだが。

おしなべて ホッパーの回答は ワタシはメイン設計プロジェクト・ハンドラーで そのような些末な事は それぞれの部署や下請けがする事で ワタシはそんな些末な役割をしない。

これ位 無駄な時間は オレには無い。

ホッパーしか こないのだから 取り敢えず 雇って 本採用前3ヵ月で判断するしかないのだ。

今日 15年位在社している小僧が 介護に来てくれた。

こんな閉じされた空間で 小僧と会話するのは初めて。

GE15の結果とか 昔の馬来西亜やどこぞのアレは旨いと話す。

「で どうして君は この会社にホップしたんだ?」

「大学を出て 入った会社が小さな浄化槽屋で つまらなかった。ホッピングしたら訳分らんうちにマネジャーになってた」

「上からは 部内のマネージメントを、部下は 全員ホッパーで技術的能力がない。そのうえ 受注後 詳細設計、現場、試運転に狩りだされる。どうしたらいいんですか?」 

「It's no choice, hopper is hopper, You can be hopping next stage」

 

 

 

 

 


2022年11月18日金曜日

バナナ・リーフ・咖哩 自作への道は まだ遠い

 バナナ・リーフ・咖哩を自宅で自作するにはどうしたらいい?

先ず バナナ・リーフを入手して、テーブルに置いてみた。

葉の表裏については 不明でどちらの面を具材を置く側にすべきか 両面の違いを比較した。

図-1
図-2     
 
図ー3

図-1 の面は、図ー2と比較し緑色が濃い。折り畳んで 比較した図ー3で違いが明確に確認出来た。

色相として緑が濃い事は この面が 太陽に面し 光合成による葉緑体活動を示している。

次に注目したのは 両面の主脈の形状。

図ー4     

 

図ー5


図ー4は、図―1の面の主脈で 中央部に向かい 両辺から 湾曲、図ー5は、図ー2の主脈であり、半円形となっている事が分かる。

一方 テーブル上での座りについては 図ー1面は 主脈が隆起し葉中央部が浮いているが 葉の大半は卓面に接している。

図ー2面は 主脈が卓面に接し 葉が中央部で湾曲 両端が卓面に接している。

上記から 葉の表裏に限定すると 図―1面が表と推論して問題無いと考えられる。

ここまででは どちらの面を具材を置く面とすべきかについては断定できない。

但し バナナ・リーフ・咖哩のこれまでのフィールド・ワーク経験上 図-1面上に置かれていたと記憶する。私のフィールド・ノート上記載や画像が無い、なぜなら 咖哩を食べる事に集中し どちらの面かについての検証を失念していたからなのだ。

ここで 幾つかの画像を紹介する。




この画像は、撮影者の食の記憶であり、バナナ・リーフのどちらの面に具材を置くかの論拠とはならない。

今後 研究諸氏の考察に期待す。
 

2022年10月24日月曜日

Ry Cooder 40hrs耐久レースは、粛々と続いて行くのだ

 

1987”Get Rhythm” 以降 Ry病い者達は、Ry名義のアルバムは2007年“My Name Is Buddy”まで Stay状態であった。

1982年“The Slide Area”から”Get Rhythm”まで5年間の空白があるので、な~に耐えて待つ事にゃなんて事無いダケンね~ではあるが、20年は長過ぎる。

1980年代のこの空白の5年と1990年代3年間、2000年代の7年間は、ある意味で充実している。

幾つかのブートレグを除き、アルバム活動は 「映画音楽」と「各国のミュージッシャンとのプロジェクト・アルバム」2軸だった。エキセントリック・ルーツ・スーパー・バンド”Little Village”もあるのだが、“Rising Sons” と同様に それはそれで また別の話だ。

 

「映画音楽」は、Wim Wenders 監督作品以外は Ryが音楽担当なだけで観た映画が幾つもある。

そんなWim監督以外の映画は、どうしてこんな映画に?これは映画そのものが良いではないかとワタシの受け止め方がある。

どうしてこんな映画に?を省くとRyの音楽がワタシ的にハマった映画。

“The Long Riders ”, “Southern Comfort”, “The Border”, “Alamo Bay”, “Johnny Handsome “, “Last Man Standing”, Geronimo: An American Legend, “My Blueberry Nights”

ワタシの傾向は、「国境」「新旧ピカレスク」「都会の喧騒と孤独」なのだ。

Ryの音楽がハマる映画とハマらない(映画自体?)のメガホンを一番多く撮った監督は、Walter Hillで ワタシは 他作品も含め、映画製作者として 最も謎(腰の座らない)な監督・製作者だ。

 

プロジェクト・アルバムは、1975”The Gabby Pahinui Hawaiian Band”が先駆けだ。

ワタシが吹っ飛んだのは、1993”A Meeting by River”(Mohan veena発明者・演奏者 Vishwa Mohan Bhattとの共作)、因みに Mohan veena とは、ヒンドゥー音楽の各種弦楽器とハワイアン・ギターが融合したそうな。楽器形状と演奏スタイルは 一見 弦高アコースティックギターをラップ・トップ・スライドで演奏している様に見えるが、音色はインドで、印度人特有な瞑想型複雑怪奇チューニングなのだろう。

1974年“Talking Timbuktu(マリのギターリスト後にマリのJohn Lee Hookerと呼ばれる Ali Ibrahim "Farka" Touréとの共作)

Aliのギターは、普通のアコースティックギターなのだが、これもまた なんか複雑な音色と独特なピッキング・リズムなのだ。

この辺りから息子Joachim Cooderが パーカッションで参加するようになる。

因みに 馬来西亜を始め亜細亜各国(空港内含む)の 妙にワタシ的に充実しているレコード屋でCDを購入し始めた。

プロジェクト・アルバムが一大プロジェクトに発展したのが、1996”Buena Vista Social Club”だ。

レジェンド・キューバン・ミュージッシャンとの共作。

が、映画音楽とプロジェク・トアルバムが融合してしまいRy本人が映画の素材になった同名映画、キー・パーソンは Ry Cooder, Wim Wenders, Joachim Cooderだ。

この映画に原作は無いのだが、“The Motorcycle Diaries”や”On the Road”と同じ様に 実在者が非実在者として流浪するロード・ムーヴィーとして観るべきではないかい?

 

そして Ryの全地球的チャンプルー音楽への流浪の旅は 果てし無く続いて行くのだ。