豊田勇造を初めて知ったのは、長野隆とのライブ盤の頃(74、5年)、
NHK ラジオ「若いこだま」の放送だった。「うさぎ」が耳に引っ掛った。
その名を再び発見したのは、75年末か76年初頭の「宝島」誌上で。
「さあ もういっぺん」LP製作への出資を募る 見開き2ページの記事。
一万円で 5枚入手する事ができ、二千五百円の定価で4枚 売れば、
1枚がタダで自分のものになる勘定だった。
ラジオから録音したテープでしか聞いた事のない「豊田勇造」、
そして製作、販売が伝説のアングラ劇団「発見の会」。
なにより、ここで出資しないと一生 入手できないかもといった「恍惚と不安」で、
即行で入金した。
高校を卒業してブラブラしていた事もあり(つまり大学浪人)、
東京でのライブに行ったり(LP発売記念が中野文化センター)、
ファンクラブに入会したり、
発見の会 福田荘に遊びに行ったり、勇造本人と会ったりした 76年の春の日。
総経理にとって、76年は勇造元年と言える。
上記 一口出資額の記憶が曖昧。
もしかしたら3枚五千円?2枚を定価で売れば、一枚タダで自分のもの?
一万円は「走れ アルマジロ」「血を越えて愛し合えたら」の一口出資金額だったかも?
いずれにしても、会った事も、話した事も無い人達を信じる事の出来た
純真無垢な19才の総経理であった。
そんな日も 「卵とトマトの炒め物」「牛肉の黒胡椒炒め」で、一杯。
そういやぁ、今日は 休刊日のはずなのに。