天丼、カツ丼、鰻丼(重)、親子丼、深川丼、スタ丼、牛丼等々。
丼物は、飯の上に主菜が鎮座し、汁椀、漬物小鉢で大体構成されている。
ワタシは、汁かけ飯や東南亜細亜の各種オカズ乗せ御飯は好きだ。
丼物は、混沌からとは程遠い食べるヒトの自由度が少ない。
自由度とは、食べるヒトが飯の上に好きな具材を乗せ、飯と一緒に食べる或いは掻っ込む要素だ。
例えば 浅草の老舗の名物海老天丼。丼からはみ出す海老天が数尾鎮座し、御丁寧に蓋が乗っている。蓋としての蒸しとかの機能性は失われている。蓋が閉まらないのだから。
海老天は、箸で千切れないので、先ず海老天を噛み咀嚼中に天ダレが付いた飯を一口箸で入れる。
ここで違和感を感じる、掻っ込み感・一体感が無いのだ。
こうやって食べ進めていくと、海老天は無くなり丼の三分の一に残った天ダレも滲みていない飯が残る。
どうしようか?既に口直し的に使った汁椀は空だ。
フト見ると漬物があるのだが、沢庵二切れと胡瓜二切れだ。これを飯に乗せ御茶漬けで掻き込むのも一手ではあるが 微塵切りであれば掻き込めるのであるが、喉に詰まらせるだけだ。
と言った様に丼物は不自由なので ワタシは好きではない。
ワタシは、自立的に味や素材が違う料理を飯に掛け、時には汁を飯に掛け食べたいのだ!
と言うモノの食べた事が無い大阪の木の葉丼は食べてみたいと妄想している。