「もはや戦後ではない」は、オレが生まれる一年程前1956年の経済白書の“記述”。
生誕後3、4年程、糸魚川に親らしき人達の事情があり潜んでいた。
此処での記憶は 殆ど無い。唯一 あるのは、流行りもん好きの父らしきがテレビを買い、夕方になると近所の人達が 相撲を見に来て、そのまま呑み会になり、阿鼻叫喚、夏場所では 熱中症対応で 麦酒を頭から浴びるヒトばかりなので、皆さん茶髪だった。
そして、埼玉、蕨の郷に一家難民す。父らしき人は、白石に黒彫字の表札を門に掲げられた。
「廣川寓」と彫られていた。御幼少のオレは、父が普段名乗っている“昭夫”は 幼名であり、成人名は 寓だと理解し、そしてオレも“昭彦”と言う幼名が 成人の暁には「寓の大兄の王子」になると理解し、父を「寓の大君」と呼ぶと理論的に論破され、グーと呼ぶなとグーで殴られていた。
蕨の郷 日の出処る國で 人口密度第一位を古事記の頃からダントツで保守している 古都。
潜んでいた家は、準表通りから入る、鍵型袋小路にあり、家々が複雑に交差し、味噌・醤油小醸造工場があった。
袋小路と言っても、ご近所さんの庭を抜けると次の筋に出れるのだ。
幼稚園にも保育園にも行っていないので 人口密度一位の郷で 小童などの存在を小学校に行くまでは 知らなかった。
あの味噌・醤油工場に潜入して 樽と樽の隙間で 幾つかの芳醇な香りに包まれて 眠りたい。
「もはや戦後ではない」ふむふむ なるほど?