2018年9月3日月曜日

Across the Borderline on Foot from Mae Sai to Tachileik


朝目覚めるとベッドの上だった。
移動が9時なので 徘徊中止 ホテルで朝食を食べる。
と言っても 無駄に6時前起きてしまうのだが。
チェンライ空港で 川村さんとプンちゃんが合流 総勢12名となる。

車でメ―サイに着き ヘロヘロ ゾロゾロと歩きタイ出国。
10m弱のサイ川 緩衝地帯の橋を渡り ミャンマー側へ。


いよいよ 今回の旅で 最も関心があった入国手続きだ。

タイ人、ミャンマー人は ほぼノーチェックで行き来している。
ここに座りなさいと言われ 机越しに 3人のオフィサーから
何日いるの?とか どこ行くの?と聞かれるのだが
相手の英語が分かりづらく こちらの英語も旨く理解して頂けない。
ガイドは?と言っているようなのだが 一向に埒が明かない。

タイ語を話す川村さんとプンが別室に連れていかれる。
何ヵ国の入国手続き(空港)で別室に連れていかれた事があるけど
無事入国できても あんまりウレシイ事ではなかった。
そんな中 マレーシアのパスポートを幾つか持って来た人が居て
オフィサーがパラパラ眺めてOKだった。わしらと何が違うの?

10分位待っただろうか 川村さんが戻ってきた。
隣のツーリズム・オフィスで 入国許可書を発行してくれるとの事。
お向かいのカフェで良い子にしててねとオネーさん。
オネーさん フツーに英語話せる!

ヘロヘロ ゾロゾロと道を横断。そこは免税店で ビールも呑める。
タチレク以外へ行く場合の入管システムを理解した。

オネーさんから道路越しに呼ばれ ヘロヘロ ゾロゾロと戻り
荷物を受け取り 入国許可書を押し頂く。
パスポートは イミグレ預かり、
 出国時入国許可書と引き換えで戻ってくる。
チェントン往復のガイド兼運ちゃんも確保した。
川村さん プンちゃん ありがとう!

ロータリー脇の屋台でビルマ料理。後ろの店でビールを調達。
夕食後 呑み足らない仲間で ホテル近くでビール。


何せ午後7時過ぎ位なのに 店が閉まっているのだ。
3月の旅でタナカが発見したウィスキーを入手。

ワッキー、勇造、ヒバリちゃんとチョット一杯
少し幸せにベッドの上で眠った。
本日の歩数 約9900歩。

2018年8月30日木曜日

旅の路上で 途方に暮れる

って言っても 夏の旅は ズンガ ズンガ ズン ズンと進んでいた。
途方に暮れているのは 旅を終えたワタシだ。
前回 チョビットいい加減に記載した部分を
とある 親切で優しい方から 教えて頂き 訂正した。

さて 次からは いよいよミャンマーに北上するのだ。
ワタシは ミャンマー三回目だが 
ミャンマー と言いましても広うござんす。
3月の旅と同じシャン州ですが 今回はタイ国と接する東シャン州。
ここで 悩む 州の中に 州がある?ウ~ン?
この辺りは タイ語が通じ 使用可能通貨は チャットとバーツ。ウ~ン?
通過する地域は 県とか郡とか ネット上で 記載されている。ウ~ン?

あの世界中の人家をストーカーできる グルグルマップでさえ
天の眼でしか場所を確認できないし 街の名も少ない。
ワタシは 酔っ払いなので天の眼を持っていない。ヤレヤレ。
移動中にグルグルマップで ピンを立てようとするが
山中では 圏外かGが立たないのだ。

で 今回の旅の辿り着く北東の街だが
アルファベット表記で6種類ぐらいある。
それは シャン語、ビルマ語、タイ語から

無理矢理アルファベット表記し
自称、他称等々が入り混じって混沌が闇の中から現れる。
更なる混沌を招く カタカナ表記なのだ。
少数民族の名前も いろんな表記だ。
行った所は特定できず あれは邯鄲の夢だったのか?

ふと気が付いたのだ。
それは 妄想かもしれないが正しいのだと六感が言う。

「あの山の途中には 似た奴らが居るらしい 
ワシら山の途中の人って言ってるんだぜ」
「お陽さんが上がる麓にゃ なんか毎朝 市が立つみたい」

そうだ 僧房や集落やら特定する名称はどうでもいいのだ!
それは例えば
「ちょっと行った所の集落で 僧房があり」とか
「ウロウロしてたら 豚舎があった」とか
そんな点と点を結ぶ 地図が出来るのかな。

また 旅を始めようか。














2018年8月26日日曜日

8月の旅は いつもバンコクから始まる

さてと 8月の旅 先ずはバンコクに向かう。
日本から あれを4カートン受け取るので
パッキングは あれのスペースを確保した。用意周到だ。

あっ!という間にDMKに着き イミグレ、カスタムを最速で潜り抜ける。
がっ!約束の場所に待ってるはずの勇造とヒバリちゃんが居ないのだ。
仕方が無いので 某所で一服し トイレに行き
出来たての7-11でチャンビールを買い 立ち飲みをしていると
二人がやって来る 10日振りの再会に涙する。

日本からの御一行7名と合流し ホテルで呑み ベッドで寝た。
本日の歩数 約6,600歩であった。

朝 ベッドで目覚め 千晴ちゃん、直ちゃん、手塚さんと朝の徘徊。
ピンクでカオマンガイを食す。普通に旨い。

午後は マーシャと再会し 例のブツを受け取る。
マーシャ先導で 総勢8人がゾロゾロとついて歩く。
歩く ただただ歩く。マーシャと最後尾の差は約500m そして歩く。

パヤタイ宮殿で 1時間半のガイドツァー。
所々で ガイドさんのタイ語説明(約15分間)を
マーシャが通訳してくれる。
まっ 要約するとラーマ5世の息子ラーマ6世がこの離宮を建設し
ラーマ7世は ラーマ6世の兄弟で
3年前に逝去されたラーマ9世が住んだ事があり
一時期は病院、一時期はホテル、 現在は観光スポットと
100年以上 あの手 この手で 生き延びた建物と言う事だ。






ガイドさんが ここではライブもできるから 勇造ライブをやらないかと。
それは それでいいかもしれない~♪

マンゴシャワーの中 寄り道しながら 勇造ライブ in バンコクへ。
いろんな人と再会、いろんな人と出会う。
良いライブだ。外で沈思黙考していると 小野崎さんが寄ってきて
進行表を見せながら 次の曲で 
オレがチン・チャップを叩くことになっていると
ダチョウ倶楽部と化しながら 連れていかれる。
自慢だが 素面では軽度の 
そして酔っぱらっていると重度のリズム音痴なのだ。
しかも チン・チャップを叩いた事なんて 無~い 無~い 無~い。
2分程 クンと勇造奨学生の男子に特訓を受けるが 無理 無理。
仕方が無いので 微笑み懇願し 奨学生男子の手を引いて舞台へ。
ホックンモン・クルングをやったそうな。
朝6時半に起きたら 可笑しなチン・チャップの音が聞こえてた~♪
盗撮は千晴ちゃんの画像を無断借用

そして 夜も更けて オレは今日もベッドで寝た。
本日の歩数 約20,500歩であった。









2018年8月24日金曜日

ミャンマー Entry Permitを読み解いてみた!

ミャンマーに入国する場合
30日のシングルエントリービザを取得する必要がある。
ボーナストラックとして タイ メ―サイから ミャンマー タチレクへ
陸路で入国する場合 ビザ無しで入国できる。
ミャンマー入管で Entry Permitを取得すると
14日間限定地域をガイド付き条件で旅する事ができる。
とはいえ パスポートは タチレクのイミグレで御召し上げられ
Entry Permitを渡され 出国時には Entry Permitと引き換えで
もれなくパスポートが戻ってくる ありがたいシステムだ。

 
 
パーミットには 入国日と出国限度日が記載され
所持者のパスポート番号、名前、性別、国籍が記載されている。
が 一行 ヅレているのは御愛嬌!
 
県境のチェックポイントが2ヶ所 あった。
が In-Outスタンプは 3ヶ所だ。
KTGは チェントン(英表記  Kengtung) これは分かった。
が NNとMAE YANGが分からない。
スタンプの下には 日があり 時刻の様な手書き記入がある。
が 時刻の記入が無いスタンプもある。
悩む 悩む 皆 悩んで 大人になった~二連音符
 
NN(OUT)の時刻が 記憶と違うと言うよりも 二桁目が理解不能なのだ。
 
 
3時間掛けて 調べると二桁目は ビルマ数字表記の7に近いのだ。
よって 17:00と解釈すると こうなるのだ。
 
 
ってな事で 旅の本編が始まるのだ!

 
 

 

2018年8月3日金曜日

東へ 南へ

友達が ここで会おうと言ったのは
マレー半島東海岸 南に位置する 船着き場の鄙びた村だった。
オレはそこに行ったことも無ければ 
クアンタンから東海岸を南下した事が無い。

この半島を横断する道路は そんなに無い。
半島中部を横切る 西東高速道が 東海岸を 南と北に分断している。
北には東海岸高速が伸びているが 南は一般道だ。
さて そのルートだが 北から(時間はG---Map)

① 西東高速道を東に240km走り クアンタンから一般道3号線で
       200km南下 約6時間強
②  一般道路で峠越えしつつ東海岸に抜け一般道3号線をちょっと南下。
   その距離 351km 約5時間30分
③ 南北高速道を250km南下し バトゥ・パハ近くで 
     一般道50号線を100km東へ 約4時間30分
④ 南北自動車をほぼ ジョホールバルまで310km南下し
   V字に140km一般道3号線を北上 約5時間30分

さて どのルートが 最適なのか?
一般道の距離が短ければ 短いほど 走行時間が短くなる傾向は
経験上 分かっているのだが
週末の南北高速道は 南下側でなぜか渋滞する。
いずれも 高速道以外 26年間未踏のルートだ。

海に陽が沈む前に会いに行こう 夕方に着くよ命の水抱えて
あのホテルの前で逢えれば最高 それからもう一晩 もう一晩~♪







   
   


2018年7月26日木曜日

未発酵と発酵を巡る 米麺の冒険

仕事上 文献を読み 製造方法を調べ 考えるのが
リスク回避の最善の策だった。

最近は 少しだけ 仕事と関係が有りそで 無さそな文献にシフトしている。
この数日注目したのは 未発酵米麺と発酵米麺だ。

中国南部から 南に伝搬された米麺なのだが
「ミャンマーにおける発酵米麺(モヒンガ―)の製造上の特色」によると
ど~も 製造方法が 二つに大別される様だ。

未発酵米麺と発酵米麺と幾つかの文献は規定している。
米を浸漬してから 水を加えながら粉砕するかの違い
ろ過と放置(発酵) の工程を踏むか 踏まないかが最初の泣き別れ。
加熱工程は 同じだが 練って茹でるか 蒸すかが二番目の泣き別れ。
未発酵米麺は 加熱後圧延、放置、切断し 麺として完成。
発酵米麺は 練って押し出し型に入れ 加熱し冷却。

「インドシナ半島の発酵型米麺のタンパク質分解と特徴的なテクスチャの関連性」
「ミャンマーにおける発酵米麺(モヒンガ―)の成分と微生物の特徴」によると 
誰が どう考えても プクプクしたら 発酵でしょ!は
科学の世界では 数値に置き換え 立証する必要がある。
発酵米麺は 原材料の米からどの様に 成分が変化しているかを
基礎研究的に 検証している。

米及び水の微生物(主にバチルス)が関係し
米の易消化性タンパク質は 低分子タンパク質に分解された。
米の有機酸(クエン酸、シュウ酸等)は 乳酸に分解された。
複合的作用によって アミノ酸が増加した。
pHは 7前後から 4強まで低下した。
よって 発酵米麺は 製造過程のシトギ製作ーろ過ー放置工程において
発酵し 未発酵麺と異なる 食感、味、旨味を得た。
パチパチ! 理解しやすい。

が これらの文献には 未発酵米麺の比較データが無いので 片手落ちだ。
また 未発酵米麺と発酵米麺のローカル名称が明確では無い。
これらの文献で 未発酵米麺 カソエ(Khauk Swer) 発酵米麺モヒンガ―(Mohinger)の
記述が見受けられ かつ カソエは鶏、豚出汁のスープで
モヒンガ―は 魚系のスープの和え麺とある。

ワタシは 今後未発酵米麺と発酵米麺の具体的な名称を特定し
ど~ 違うのかのフィールド・ワークと文献漁りをし
再び 報告しようと 考えている。













2018年7月16日月曜日

肉骨茶は 肉骨茶

数ある マレーシア華人料理は 
広東、福建、潮州、客家、海南をルーツとし
・ルーツを保ち続けている
・マレー料理やインド料理と混色しながら 中華風味を残す
・大陸、香港、台湾では同様の料理を食べた事が無いが
 タイや東南アジアに似た様な料理がある
なのだ。

が 肉骨茶だけは 上記に当てはまらない。
どれだけ 調べても 食文化のルーツがハッキリしない。
滷味や茶葉蛋系だけど 違う。

今日 「マレーシア華人料理における香辛料利用の特徴」(1999年)
を発見の会!

この文献は 三分の二を荒井茂夫が
ニョニャ料理と擂茶のルーツと香辛料を論じ
三分の一をシンガポール国立博物館長 リム・ホウセンが
肉骨茶を論じている。

残念ながら 肉骨茶のルーツについてリムも断定できない。
が マレーシア・シンガポールのオリジナル華人料理と考察している。

「病気の子供に漢方入り豚肉スープを食べさせたら病気が治った」
@クラン
「肉体労働者が 市場でホカされた豚肉、内蔵を漢方で煮込んで 
 朝食とし 過酷な労働をした」@シンガポール
この伝聞は 混ざりあいながら お互いが発生地と秘かに争っている。
これまでも耳タコのまことしやかな 伝聞から
出仕は確認できないが 華僑はシンガポールを起点にし
マレーシアに北上したとしたうえで
肉骨茶の起源は シンガポールと曖昧にリムは記述している。

仕方が無いよね シンガポール国立博物館長だから。
今や 東南アジア、台湾、香港、大陸でも
馳名新加坡と肉骨茶屋があるからさ。
でもね どっかの国で 
ある地域の蕎麦の汁が黒くてからいと言う地域がある様に
新加坡は 胡椒風味の白バクさ。

滋養強壮と匂い消しの漢方 中国醤油に
三枚肉やスペアリブ モツをぶっこんで 煮たスープ
そんな チョット 乱暴だけど 美味しく 身体にもよい。
肉骨茶は 肉骨茶さ それでいいのだ!

あなたもどう? 肉骨茶ってのをさ!